平和のインパール作戦 ~日本文化使節団による現地文化交流~
写真・文 西村仁美(にしむら ひとみ)
昨年秋、インドのインパールで、「日本文化使節団」による慰霊の活動と現地観光祭り「サンガイフェスティバル」を通じての国際文化交流が行われた。その模様を現地レポートの形で紹介する。
■日本文化使節団、インパールへ
インパールまでの道のりは長い。同地は、インド北東部のマニプール州の州都だ。成田空港からの直行便でインドのニューデリーに入り、そこから国内便に乗り換え、グワハティ経由で合計約11時間かかる。
そうして、昨年2019年の11月25日、筆者を含む「日本文化使節団」17名(※残りのメンバーは別の形で参加)は、インパールに入った。団長は、長谷川時夫さん(71才)だ。新潟県の「ミティラー美術館※1」の館長で、音楽家でもある。後者としては、1960~70年代にかけ、ヨーロッパを中心に活躍した前衛音楽集団「タージ・マハル旅行団」のメンバーで、近年、単独での演奏活動を行っている。また、国内で毎年行われる日本最大級のインド祭り「ナマステ・インディア」の実行委員会代表を務めるなど多方面で活躍、日印の架け橋となり、両国間の文化交流に尽力する。
「昨年マニプール州政府から派遣された舞踊団の全国公演ツアーを行い、大成功を収めました。そのまま日本との交流を継続、発展していきたいということで、今度はぼくが州政府から招待を受けたのです」と長谷川さんは出発前に話していた。
マニプール州は、人口は約270万人で、面積は約2.2万平方キロメートル。「ミニインド」とも呼ばれ、多民族、多部族で構成されている。主な住民は、チベット・ビルマ語族のメイティ人で、宗教はヒンドゥー教とキリスト教の信者が多数を占める。
そのような同州で、毎年行われているツーリズム祭り、『サンガイフェスティバル』(マニプール州観光局主催)に、最大20名までの日本の伝統芸能関係者を招待したい、という州政府の意向で、長谷川さんが、選り抜きの人々に声をかけ、冒頭の使節団を結成したのだ。
使節団と同祭の話は、後ほど紹介する。旅程は、11月24日~12月1日まで(※実際には、帰りの便の遅れで2日の帰国)の8日間だ。
さて、話は戻るが、日本ではインパールと言えば、第二次世界大戦末期、日本軍により強行されたあの「インパール作戦」を思い起こす人も少なくないことだろう。十分な食糧や銃器、弾薬などを持たずに進軍したことなどから「無謀な作戦」として知られ、推定3万人の日本兵が死亡、そのうちわかっているだけでも約8,000人は、作戦中止後に病死し、相当数の「餓死」がそこに含まれていると見る話もある。※2
市内から車で約20分ほどのロトパチン村に、村人が作った犠牲者を供養するための慰霊碑がある。ちょうど日本軍がイギリス軍と熾烈な戦闘を繰り広げた丘、通称「レッドヒル」の麓のところだ。
私たちは、インパール到着3日目の27日、ようやくこの慰霊碑の前に手を合わせに来ることができた。
■平和のインパール作戦へと続く
今回の使節団の構成メンバーは、先の団長の長谷川さんを含む家族3人を筆頭に、以前、本誌(平成29年5月号)で紹介したことのある「桂林寺」(横浜市)の住職で、画僧の永田英司さん、光恩寺(群馬県)の住職、長柄行光さんとその妻、福島・西会津在住の美術家で和紙製造者の滝澤徹也さん、約20年間アメリカで暮らし、現在一時帰国中のグラフィックデザイナーの二瓶聖さん、そして、東京の和太鼓集団「鼓遊」のメンバー6名とその家族や、筆者を含む関係者などだ。全体の年齢層は下は11歳から上は79歳と幅広い。
ところで慰霊碑前では、永田さんら僧侶2名による供養の読経から始まり、使節団や現地関係者など総勢約30名が次々と献花し、線香を上げて、碑に向かい合掌をした。最後に鼓遊が、和太鼓の演奏を奉納して締めくくった。
「兵隊さんは、目的を持って命をかけてインパールへ行ったのに、日本では無駄死にしたようにばかり言われています。ですが、インパール作戦はインドにとっては、独立の大きなきっかけになった。彼らの死がもっと評価されてもいいと思うわけです。同じように、私たちにとっても、インパール作戦があったから自分たちが今ここにいて、現地の人たちと文化交流をすることにもなっている。言わば平和のインパール作戦へと繋がっているわけです」
セレモニーの合間に、慰霊碑を前に長谷川さんが、私たちに向けてこのように語りかけた。
長谷川さんは、実は、今から約26年前、インパールへ戦争に行った生き残りの元兵士との出会いがきっかけで、1995、1996年と、マニプリ舞踊団を日本に招待し、昨年も含め、その後の政府派遣の舞踊団を合わせこれまで八グループの日本全国ツアーを成功させ、今日に至っているという。言ってみれば、国際交流の懸け橋となって、平和の礎を築く平和部隊の隊長のようなものなのだ。
この日は、慰霊碑のすぐ近くの、「インド平和記念碑」や、2019年6月にオープンしたばかりの「インパール平和資料館」なども見学。一日かけてインパールで戦争や平和について考える貴重な機会となった。
■手漉き和紙に犠牲者の魂を鎮める
翌日には、先の滝澤さんが、今度は美術家という立場からの慰霊、鎮魂の行為を行った。
使節団有志と共に車で市内から約20分ほどの村まで行き、そばを流れるインパール河に入って和紙の紙漉きを行ったのだ。
「移住先の西会津で地域おこしの仕事をしています。こちらの戦場で亡くなった方々の中には、関東から北の方の方が多かったみたいなので、うちの町の人や、和紙作りの職人さんも中にはいたかもしれない。戦後も守り伝えられてきた伝統的な技術と共に、会津の原料を持って行って、紙を漉くという行為には何かしらの意味があるかもしれないとも思いました」
滝澤さんは、和紙を使った作品を国内外で、個展などを通じて数多く発表している。作品は、言わば釣った魚の魚拓をとるような感じで、地球の自然の「表情」を、その土地土地の歴史や風土を含めて和紙に「移し採り」、一つの作品に仕上げていくといった感じだ。
この日も、日本軍が進軍し、遺灰も流されたであろうその河で、河の表情を和紙に移し採るようにしながら、作品制作を行っていた。事前にレッドヒルまで行き、集めたという土を、そこに少しずつ振り落としながら。慰霊の想いを、前もって伝えられていた永田さんや鼓遊のメンバーたちは、紙漉きを始めた滝澤さんの呼吸に合わせる形で、ここでも供養のための読経や演奏を行った。後で知ったことだが、ほぼ打ち合わせはなし、の三者合同による即興だったらしい。事前にこれらの行為を承知してくれた近くの村人たちは、興味深そうに集まって来て、両岸の土手の上やそばの岸辺からその様子を見守っていた。
「美術家として、祈りの行為として、インパールという場所柄から何かできたらいいという思いがあった」という滝澤さんの、「極力自分を出さず、自然に委ねる」ようにしてできた作品は、その一部が、後日、インパール平和資料館に所蔵されることになった。
■後世に語り継がれる音楽の誕生
さて、肝心の「サンガイフェスティバル」についてだ。「サンガイ」は、現地に生息する希少種の鹿の名からとったもの。マニプール州の豊かな伝統と文化を紹介する場にとどまらない、政府主催の最大の観光祭の一つとなっている。
五つある会場のうち2つに、文化使節団のメンバーは参加、どちらも大変な反響を受けた。
現地の伝統工芸品などの出展ブースの集まる会場では、先の滝澤さんと二瓶さんがタッグを組んだ。
二瓶さんは、チラシや写真をカットして、つなぎ合わせるコラージュの作品を得意としている。
滝澤さんが漉いた和紙に二瓶さんの絵をプリントしたものの展示販売や、和紙作りの実演とその工程を紹介するパネル展示などを行っていた。もう一つ、伝統舞踊や音楽を披露するステージのある会場では、鼓遊が大活躍した。
特にインパール最終日夜の演奏は、「長谷川演奏隊」、鼓遊、マニプール舞踊団、滝澤さんの紙すきによる異色のコラボレーションとなったが、中でも和太鼓の演奏には割れんばかりの拍手が寄せられていた。
一方、全体をリードする、音楽家としての長谷川さんの傑出した才能が際立つステージでもあった。ご本人曰く、「ストーン・ミュージック」がテーマとしてあったようだが、「石を頭上に持ち上げ、打ち下ろす」という現地の子どもたちによるパフォーマンスは、今でも強く心に焼き付いている。あの一夜限りの、言わば音楽の阿頼耶識から発せられたような音楽は、後世まで語り継がれるもののように感じられた。
■一歩先に踏み込んだ国際文化交流
私たち使節団の「平和のインパール作戦」は、最終日のステージで見事結実した。今回、日本とマニプールとの文化交流を、長谷川さんは一歩先まで踏み込んだように思えた。それは、きっとストーン・ミュージックの話に答えが見い出せそうだ。
「石を持ち上げ、全身で風を感じたら石を打ち下ろしていいことにしている。石は地球そのもの。石から土はでき、土があることで森ができ、自然ができる。そこに我々人間やほかの生き物も暮らす。風は自然の象徴であり、そこに空気も含まれる。風があって人間は初めて存在する。風がそよぐことで、例えば森にいるなら木の枝と枝がこすれ、音が聞こえて来る。風は自然。自然の中で生かされていることが感じられたら、むやみな殺生はしなくなる。自然のあらゆる存在に慈しみを感じるようになる。平和になるでしょ。実は、そういう宇宙観のある強烈なメッセージなんですよ」
最後にそのような音楽の演奏に参加した使節団のメンバー、ふたりの声を紹介したい。
鼓遊の中学三年生(15歳)の吉野涼花さんは、「インパールという名すら知らない私がその土地で演奏できて、とてもいい経験になりました。無謀とも呼ばれた『インパール大作戦』。亡くなった方々へ向けての追悼演奏が届いて欲しい。この一心でした。感謝の気持ちとお疲れ様の気持ちを届けることが出来て良かったです」と話した。
また、同じチームで、使節団メンバーとしても最年少の小学五年生(11歳)のAくんは、「戦争の時代にはいなかったけど、インドと日本の方々が苦しい思いでたたかって来たことを感じた。そういう人たちのために、ありがとうという思いを込めて演奏しました」と答えてくれた。
インパール作戦で多くの犠牲者を出し、人々の血で大地が染まり、未だ故国に帰れない亡骸のあるこの地。戦争犠牲者への宗教者による慰霊も供養と同じように、こうしたアートや音楽といった表現活動を通じての宗教者の祈りにも似た行為は、戦争のない平和な世界へ近づける力のあることを、そうした地であるからこそなおさら強く感じた。
今回のインパールでは、現地の人がボランティアガイドとして毎日、付き添い、街案内から展示ブースでの設営まで、ありとあらゆることをサポートしていた。滝澤さんの紙漉きの実演では、現地の高校生などが和紙の原料を叩き棒で叩いて手伝ってもいた。
こうした交流が、様々な場面で他にもあり、筆者の目から見て何よりの、日本とマニプール、インドの平和のための無形の財産になるものと思われた。また、アートや音楽を通じての交流は、国境や言葉を超え、たやすく人々の心の距離を縮めることも、今回肌で感じるところだった。
現地で撒かれた平和の種が、芽を出し、さらなる広がりを見せていくに違いない。
※1インド北部やネパールで伝統的に描かれて来た壁画をルーツとする絵
※2「戦慄の記録 インパール NHKスペシャル」岩波書店刊
(『大法輪』4月号[2020年4月1日発行]より転載)
参考
ミティラー美術館
http://www.mithila-museum.com/
鼓遊
https://koyu-taiko.blogspot.com/
滝澤徹也
http://tetsuya.main.jp/word/
■西村仁美プロフィール
(撮影:柳 十四男)
ルポライター兼カメラマン。1968年、東京新宿生まれ。現在は川崎在住。
著書に、『奄美・テゲテゲで行こう!』『悔――野宿生活者の死と少年たちの十字架』(共に現代書館)『「ユタ」の黄金言葉』(東邦出版)、『格安! B級快適生活術』(ちくま文庫、共著)、『3・11 絆のメッセージ』(東京書店、共著)などがある。制作協力としては『どんな命も花と輝け』(宝島社)など。
「AERA」、「サンデー毎日」、「週刊金曜日」、「DAYS JAPAN」「大法輪」「スッカラ」「田舎暮らしの本」など多数の週刊誌、月刊誌などで記事を発表。現在「サンデー毎日」では健康法の紹介と「週刊金曜日」では人物ルポの連載(※こちらは、連載担当の執筆者が複数いる)を行っている。一方で、施設に入居する母親の「通い介護」をしながら、音楽ライブを仲間と企画したり、沖縄・辺野古の基地建設問題に絡む請願署名活動に参加したりするなど、様々な活動を行っている。趣味はフラ。
更新日:2020.03.17